「性善説」だったけれど…

 その正しさを共通認識したことについては、誰れもがそれを成す為に努力し、もし、それが出来なければ、その出来ないことを悔いるものだという、言わば「性善説」的な考え方がベースに有ったのだが、還暦も近づいて来て、その考え方は間違っていることを悟った。
 そもそも、共通認識が出来たか、どうかが怪しいのである。
 多く人は、自分の本心は見せない、本音は語らない、常に自分の損得を計りながら、その場の流れ(大勢)に合わせているようだ。
 こっちが勝手に共通認識が出来たと勘違いしているだけだった。
 それは、「いざと言う時」に初めて判る。
 「自ら火中の栗を拾う人」は非常に少なく、皆、「誰が拾うか」を見ている。

 

 今日の一言…「火中の栗を拾っても、スケープゴートに成るなかれ」

以上